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(あかりたん)




aka-ari(あかり)のゆるゆるreblog

スピリチュアル風味。
気づいたら猫まみれ。

本家は癒しのあかりっす(・ω・)

おたすぴもよろしう(´ω`)

Archive

Mar 10

立花 がんのお医者さんがよく、「死に方を選べるとしたら、がんがいい」と言いますよね。しかし、緩和ケアがしっかりしていなかったら、イヤでしょう。

中川 イヤです!

立花 やっぱり(笑)。緩和ケアがあって、はじめて「がんで死んでもいい」と思える。

中川 そう。がんはちゃんと症状を把握してケアしていけば、最期まで普通の生活ができる。アメリカ人も「心筋梗塞で死ぬのはイヤだ。がんで死にたい」と言う人が多いですよ。

立花 なぜ心筋梗塞はイヤなんだろう。痛いからですか。

中川 いや、ピンピンコロリだからです。

立花 ピンピンコロリなら、いいじゃないですか。

中川 いや、死ぬまでの時間がない。人生の仕上げができないのです。アメリカ人は誕生日が来るごとに、遺言を書き換えたりします。死ぬときのことを常に考えています。しかし、日本人はピンピンコロリを望む人が少なくありません。がんで苦しみたくないと思うからです。「なぜ死は怖いか」というアンケートのデータがあります。1位は「死ぬのは苦しいから」です。つまり、死のプロセスが苦しいから、怖いと思っているわけです。自分という存在が無くなるという実存的な不安は、それより下位です。痛みの苦しさを取ってあげたとき、はじめて本来的な死の恐怖を感じるようになる。

がん徹底対論 立花隆×中川恵一:がんサポート情報センター (via mayumiura)

(via motomocomo)


Feb 3
“「暴力としつけ」について書きっぱなしになっていて、申し訳ありません。
 でも、書けない間、みなさんのお考えが聞けてよかったです。

 特に最初の投稿で、
 「精神医学的に見ると、大雑把に言うと、色々な症状(虐待を含む暴力も)
 は抑圧の結果で、「言語化されていない言語」と見ます。(これについての
 説明は長くなるので割愛させていただきます。)」

 とそのままにしておいたところに対して、尚さんが「虐待、暴力、気づきに
 ついて」という巻頭言で言及されていたので、とても頼もしく嬉しく思って
 います。本当にありがとうございました。

 尚さんが書いておられる通り、気づくことが全ての第一歩だと思います。
 「言語化されていない言語」について別の例をあげてみたいと思います。

 たとえば「寂しい」という代わりに、食べ物を口にする。食べるという行為
 自体は、生きるために日常的にすることです。「日常的な行為」と、「言語
 化されていない言語」の見分け方は、それを不適切な形で、使うかどうかで
 判断できます。「食べる」という行為の場合は、必要なものを食べない(拒
 食症)とか、必要以上に食べる(過食症)とかそういう形で出て来ます。で
 すから、「食べるという行為を通して寂しい私」を表現せずに言葉で、「寂
 しい」ということが出来るようになると、随分違ってくるのです。

 言うまでもないですが、この「寂しい」のところや「食べる」のところには
 色々な例が当てはまります。

 もちろん、「私はどうして食べることをやめられないんだろう?」と考えて、
 すぐ「ああ、そうだ、寂しいからだ」なんて思い当たることは非常に少ない
 です。むしろ、「寂しい」ことを「認めないためなら、なんだってする(リ
 ストカットとか)」という場合が多いです。だから「寂しい」を「食べる」
 という一見何の関連も無い方法で言語化しているんだと思います。というか、
 それ位離れていないと傷が痛くって表現できないのでしょう。
 ただ、当たらずとも遠からずといった程度でも、言語で表現を重ねていくう
 ちに、ちょっとずつ色んなものが成仏(^-^;)して、核心に辿り着けるのでは
 ないかと思います。

 ですから、同じように、誰かや自分を傷つけるような行為をする前、した後
 に、少し想いを馳せていただきたいのです。

 「いい子に育ってほしいという愛情があれば暴力ではないと思います」とい
 うご意見がありました。これは、その方だけでなく、体罰を肯定する方の大
 部分の方の意見であり、体罰について是か否か迷われる方の、大きなポイン
 トだと思います。

 ちょっと情景を思い描いてみて下さい。
 「愛情」って取り出してみせることができるでしょうか。「いい子に育って
 ほしい」と思いながら殴るときも、見えるのは、「暴力」だけです。

 たとえ「思い」が良くても、なされた結果が良いとは限りません。
 料理をする時に火を使いますが、そこに手をかざすとやけどをします。「こ
 れは料理という良い目的のための炎なので、やけどはしない」といくら「思
 った」ところで、結果はやけどという「けが」です。

 くりかえしになりますが、ある教育者が、暴力としつけに書いておられる文
 があるので、引用します。

 > 「暴力で愛情は表現できない」です。

 >  「この子のためを思って、たたくんだ」というのは、親の勝手な浪花節
 > です。なんとすれば、暴力的な方法で、子どもを指導したときと、相手を
 > 尊重しつつ、毅然と、しかし、やさしく子どもを教え諭したときでは、子
 > どもの反応が明らかに違うからです。
 > どちらの方法をとった場合が、親も望むような教育的な結果になるかは、
 > 歴然としています。

 このように、もっとも効果が薄く、害のある暴力という方法を、その人がと
 らないといけないとしたら、理由はどこにあるのでしょうか?

 人間したくないことは中々出来ません。したくないなら、<他にも選択肢が
 あるのに>、わざわざその方法(暴力)を選びません。それなのに、暴力を
 選んでしまうことがあるとすれば、それは「嗜癖」と呼ばれるものです。暴
 力の程度や頻度は関係ありません。

 しかも、法律で決められている犯罪です。
 だから、少なくとも、叩きながら、叩いた後で「ああ、今自分は犯罪を犯し
 ているのだ」という自覚をしていただきたいです。

 振り返ってみて、「しつけの手段として暴力を肯定している人」の多くは、
 今、親だったり、先輩だったり、上司だったり、色んな形で人の上に立って
 いる方…、もっと言えば「自分が殴られる立場」より、「殴る立場」にいる
 方々ではないでしょうか。

 前回、補足で『「自分のされて嫌なこと」を立場が変われば「する」のは、
 いじめです。』とお局さまや姑の例を挙げてお話ししましたが、同じように、
 かつて「殴られていて」、「殴る立場」をやっと手に入れた方々が、暴力を
 肯定しているのではないかと推察します。そこにあるのは「暴力の連鎖」で
 す。

 殴られていたときが、辛ければ辛いほど、「殴る立場」を手放すことは難し
 いです。
 でも、本当に殴りたいのでしょうか?
 本当の本当は、殴られていたときの傷がまだ激しく痛んでいるのではないで
 しょうか?
 本当は、「殴られて嫌だった」「辛かった」「痛かった」と言いながら、殴
 っているのではないでしょうか。

 暴力を肯定する方の「殴りたくて殴っているのではない」というのは、ある
 意味真実で、自分の辛さを他者を殴ることでしか、表現できないのだと思い
 ます。

 しかし、気づくことで「言語化されていない言語」は、他の表現に翻訳する
 ことができます。
 あると気が付いた傷は癒すこともできます。

 「辛い」という代わりに殴るのをやめてみませんか。
 辛い時には「辛い」と言っても良いのです。言えなければ涙を流しても良い
 のです。


 蘭華さんのお話は読んでいて、蘭華さんの真実を透徹する目に触れたようで、
 鳥肌が立ちました。今回の文章は、蘭華さんに書くエネルギーをもらったよ
 うなものです。辛いお話を、シェアして下さって本当にありがとうございます。

 虐待は程度の問題ではなく、どんなものでも心に深い傷を残します。

 蘭華さんが「虐待は人間性を否定する行為であり、お互いを軽蔑しあう結果
 しか生まないと断言できます。」というのは、全くその通りです。他の結果
 は生みません。

 親や、上司や、先輩の立場をちょっと横に置いて、ご自分が子どもの立場に
 なってみませんか。
 立てないなら、立てない自分の辛さに少し寄り添ってみませんか?

 今は、あの頃の小さな自分ではありません。オーラ・ソーマというツールや
 幅広い知識が得られるメルマガもあります。

 このメルマガを読んだ方に、もっと多くの愛と光が届きますように。

 長い文章を読んで下さって、ありがとうございました。
 そして、書く機会を与えて下さったみなさんに、感謝を捧げます。
 ありがとうございました。

 ローズ”
『オーラソーマ通信』 vol.068 - ローズさんの投稿

“前回は体罰についてというテーマでしたので,主に身体に加えられる暴力と
 しての「虐待」のお話をさせていただきましたが,「虐待」は実は幅広く,
 尚さんがおっしゃっていたようにもちろん「言葉の暴力」も含まれますし,
 「養育の放棄」も含まれます。性的虐待も、含め,ここまでは,立派な犯罪
 で法律に裁かれます。
 性的虐待ですが,例えば,成長期にある子どもの体を不必要に眺めたりする
 のも、虐待に入ります。たとえばお風呂を覗いたり,着替えを覗いたりする
 のもこれに当たります。
 それから、「過剰な期待」も精神医学的には「虐待」の範疇です。
 え!?と思われるお母さん方,お父さん方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、常に現状にオーケーを出せず,自分より弱い立場の子どもに,ない
 ものねだりをするのは言うまでもなく「言葉と態度の暴力」です。

 そして、ちょっと話は離れますが,姑、お局さまが、後輩に言いがちな「私
 も我慢したんだから,あなたも我慢しなさい。(あなたが我慢する番よ)」
 というのは,立派ないじめです。
 自分がされて嫌なことを人にするのは「いじめ」以外の何ものでもありませ
 ん。自分が嫌なことなら,変えられる立場になったとき,変えていくのが本
 当です。(しかし,傷が深い時,「どうして,私だけがそんな目に遭わない
 といけないの。あなたも同じ目に遭いなさい!」としか思えないのでしょう、
 この話もほとんど猛反発を食らいます。)

 「話は離れる」と書きましたが,一方の親が子どもに暴力を振るっている時,
 それを見ているだけのもう一方の親に,この姑・お局と同じタイプがいると
 思います。

 「体罰」は,法律で裁かれる犯罪なのに,昨日の50人の現役教師が出たバラ
 エティ番組で,「体罰は是か否か」というテーマで討論が行われていたので,
 びっくりしました。現役教師ですら,知識がない人も多いのですね。
 番組中では「是非の前に,それは犯罪ですよ」という意見は誰も言わずじま
 いだったので,もしかして50人全員が知らないのかもしれません。
 本当に驚きです。討論では,「体罰」と「叱る」ということをすり替えて
 「怒られるのを待っている子どもがいる」という話に終始していました。
 「叱る」のも「しつけ」も「教育」も必要なものです。それを「法律の面で
 も,効果の面でも,暴力ではできない」という認識が欠如しているのでしょ
 う。

 私は,これを書きながら,どうやったらこの知識が広まるのかな~と考えて
 います。今,親である人に,今,教師の人に,今,警察官の人に,そして全
 ての大人に。
 繰り返しますが,この知識は,今暴力を振るう親に育ったかつての殴られた
 子どもたちを裁くものでも,今,暴力を振るわれる人を見て見ぬ振りをする
 大人を責めるものでも,殴られて育った子どもを辱めるものでもありません。
 自分を受け入れる大きな手助けになるものです。
 それには、抑圧と否認を捨て,現実を認識することが不可欠でしょう。

 ー私は殴られて育った、虐待されて育った…。しかし「それでも生きていく
 私」の姿が尊いのだと思います。”
『オーラソーマ通信』 vol.066 - ローズさんの投稿

“「暴力をふるう」ことで、「愛情表現」も、「教育」もできません。暴力で
 表現できるのは、暴力をふるう側の、「言語化されていない言語」です。

 精神医学的に見ると、大雑把に言うと、色々な症状(虐待を含む暴力も)は
 抑圧の結果で、「言語化されていない言語」と見ます。(これについての説
 明は長くなるので割愛させていただきます。)

 もちろん、暴力を振るう方は「愛しているから」とか、「お前のために」と
 いうごまかしは頻繁に使います。暴力を受けた子どもは、そこで生き延びる
 ために、一時的には暴力を肯定せざるを得ないこともあります。「愛されて
 いるから、殴られるんだ。お父さんは私のためを思って、したくないのに叩
 いてくれているんだ。」おそらく、そのサイトで,「体罰は正当」と言われ
 るみなさんは,そうご自分に言い聞かせて、成長されたのでしょう。
 …でも、人間したくないことは中々出来ません。したくないなら、<他にも
 選択肢があるのに>、わざわざその方法(暴力)を選びません。それなの
 に、暴力を選んでしまうことがあるとすれば、それは「嗜癖」と呼ばれるも
 のです。暴力の程度や頻度は関係ありません。

 子供の教育について、いろんな考え方があると思いますが、「虐待」は<教
 育の範疇>に含まれていません。まず、この事をはっきり認識しないと,感
 情論や価値観の問題に簡単にすり替えられます。

 私がこの事について,書くきっかけになったある「子どもを殴るのがやめら
 れない親父」は、殴ったことに後悔しながらも,下のように言いました。

 暴力親父>『暴力』言葉だけ捉えれば“悪”そのものです。でも、中身はどう
 かというといろんな想いがあると思います。

 しかし、この意見は、暴力をふるう側(強者・支配者)の論理であって、振
 るわれる側(弱者・被支配者)の論理ではありません。暴力をふるう側の想
 いがどうであっても,起きた現象は「暴力」です。しかも「善の暴力」は存
 在しません。振るう方が、「善」と感じているとすれば、それは、暴力をふ
 るう側の大変な思い上がりです。

 『虐待』は、客観的に見ればはっきりわかりますが、当事者同士では『見え
 にくい問題』です。
 だから、プレジャさんの参加されているサイトでも,被害者が加害者を肯定
 し,暴力まで肯定するという現象が起こっているのだと思います。それは、
 子どもは親にライフラインを握られているからです。親を否定してはその家
 庭で生き延びられないからです。そして、恐ろしいのは,「世代連鎖する」
 というところです。「殴ってくれてありがとう」と思っている人は,当然自
 分の子どもも「その子のために」殴ります。しかし、この「世代連鎖」の一
 番恐ろしいところは,下の世代になるに従ってひどくなる所です。振るわれ
 る暴力の程度は,下の世代に下がるにつれてひどくなります。

 ある教育者が、暴力としつけに書いておられる文があるので、引用します。
 > 「暴力で愛情は表現できない」です。
 >
 > 「この子のためを思って、たたくんだ」というのは、親の勝手な浪花節
 > です。
 > なんとなれば、暴力的な方法で、子どもを指導したときと、相手を尊重し
 > つつ、毅然と、しかし、やさしく子どもを教え諭したときでは、子どもの
 > 反応が明らかに違うからです。
 >
 > どちらの方法をとった場合が、親も望むような教育的な結果になるかは、
 > 歴然としています。

 親がこどもをたたくのは、自分が「たたきたいからたたく」というのが、正
 解だと思います。

 子どもは親にライフラインを握られています。虐待者と被虐待児の関係で、
 どれほど虐待児は自分の意見というものを見つけて、主張できるでしょう
 か?同じようなケースの場合、ほとんどの子どもは「親の意に背くと、自分
 は見捨てられるのではないか」と大変な恐怖を覚えます。また、子どもは親
 を喜ばせようと、「親の期待を読み取って」その通りに選択することも多い
 です。

 繰り返しになりますが、「暴力」はしつけにも教育にもなりません。しつけ
 や教育をするには他の方法がいくらでもあります。それなのに、その人が
 「暴力」を選ぶとすれば、それは、「暴力をふるう側」の問題です。子ども
 の問題でも、教育上の問題でもありません。

 「暴力」に、「愛情」は理由になりません。
 「暴力」という表現手段をとる時、そこには「愛情」以外の理由がありま
 す。
 そこをきっちり分けないと、何も始まらないし、解決もしません。

 「虐待」は考え方の問題ではありません。実際に起こっている「現象」で
 す。そこには解釈の余地はありません。日本の未熟な法律でも、犯罪に当た
 ります。解釈の問題ではありません。(実際は警察の現場の認識不足で、被
 害者が大けがや死んだりするまで、問題にならないことが多いです。防げる
 死がほとんどなのに、残念です。日本は、10~20年は遅れていますか
 ら。)

 繰り返しになりますが,私の申し上げたことは、私個人の考えや価値観、解
 釈ではなくて、「虐待」に関する一般的な知識です。
 「暴力を受けて育った子ども」の存在を脅かす考え方ではありません。「殴
 りたくないのに殴ってしまう大人に育ったあなた」へ、別の選択肢をもたら
 すものです。

 しかし,こういう話は、多くの場合、プレジャさんのサイトに参加して「体
 罰を是」とされているような方々は、頭から認めません。私の知人も、子ど
 もに暴力を振るうことに悩んでいてさえ、いくらコドバを尽くしても,認め
 ませんでした。認めたくないのは、余りに本人の傷が深いからだと思いま
 す。認めてしまえば「愛されて育った自分」「私を深く愛してくれた
 親」「子どもを深く愛する親になった自分」という<自分が信じたい自分
 像・世界像>が崩れてしまうからです。それが崩れて行くのは,大変な恐怖
 です。ですから、ものすごい抵抗に合うのだと思います。

 極端な例ですが、最近明るみになった事件で、長年性的虐待を神父から受け
 ていた少女でさえ、「自分が悪かった」と思っています。それ位、子どもと
 いうのは、身近な大人を肯定して受け入れなければ生きていかれない、弱い
 立場なのです。そして、「自分が悪かった」と思い続けて母親になったら、
 自分の娘が同じような性的虐待を受けても,「性的虐待を受けるのは当然の
 こと」として,娘を守ることはできないでしょう。逆に,彼女自身が加害者
 になることもあり得ます。

 本当は,抑圧や否認から離れ,恐怖を受け入れながらも真実に向き合おうと
 した時,その恐怖は「力のない幼い子ども」だった時の恐怖であり,今の自
 分とは違うことがわかると思います。そして、自分の傷に向き合うのは,辛
 い過程もあるけれど,何倍もの安らぎと至福をもたらしてくれるものだと思
 います。”
『オーラソーマ通信』 vol.065 ローズさんの投稿

Jun 20

(Source: addelburgh, via 4kshike)


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(via motomocomo)




Jun 7
“職場のおじいちゃん社員「若いうちにミスするのは当たり前で、年を重ねるにつれて減っていく。けどスピードは年をとると落ちる。若いうちからスピードがないとダメなんだよ。ミスしてもいいから仕事は早くこなしなさい、あなたのミスは俺が全部責任とるから」私「(´;ω;`)ブワッ」” Twitter / kuruquru2 (via yellowblog)

(via motomocomo)


Jun 5
“ひとりで考え、ひとりで素晴らしい作品を生み出す人なんて、そんなにいやしないよ。
天才には必ずその天分を引き出す人間がいて、
そいつのほうが、もっとずっと天才だったりするんだ。
                                           —赤塚不二夫”
いかした名言集めようぜ 働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww (via yangoku) (via veadar) (via miyavi) (via copula) (via yellowblog) (via usaginobike) (via edieelee) (via text-man) (via tiga) (via asanuma) (via obakehouse) (via suzukichiyo) (via takaakik) (via dannnao) (via an-k) (via appbank) (via iro) (via handa) (via noboko) (via barmaroc) (via klaftwerk) (via mamemomonga) (via poochin) (via motomocomo)

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